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1926年に生をうけて2024年12月19日にその波乱に満ちた人生に幕をおろしたナベツネ。
読売新聞グループの最高権力者として、また読売ジャイアンツのオーナーととして日本のメディアとスポーツの歴史に多大な足跡を残した渡辺恒雄。この強烈な個性を持つ男の素顔を見ていきたいと思います。
目次
ナベツネこと渡辺恒雄の若い頃:彼は何者?
簡単に言えば彼は日本の新聞界とプロ野球界を長年にわたり支配し、『メディア界のドン』として圧倒的な影響力を誇った実業家でした。
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- 生年月日:1926年(大正15年)5月30日
- 没年月日:2024年(令和6年)12月19日(98歳)
- 出身地:東京都杉並区
- 家族構成:両親と5人姉弟の3番目の長男
学生時代~
- 東京帝国大学文学部哲学科(現在の東大の文学部)入学後陸軍に徴兵
- 軍隊生活中に上官から暴行を受ける。
- 捕虜収容所生活に備え哲学書を3冊常に持ち歩く
何の本だったんだろう?
- カントの『実践理性批判』
- ブレイクの詩集
- ケット英和辞典 (* 後に彼は見つかっていたら、確実に重営倉(懲罰)だね。と語ってます)
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- 終戦の日に除隊:兵役期間5ヶ月-3ヶ月後に東京大学に復学
軍隊での経験から軍国主義や国家主義を嫌悪して日本共産党に入党ーしかし反マルクス主義運動を展開ー共産党離党(除名処分)
- 1950年3月:東京大学新聞研究所(現在の情報学環)を終了
(出典:日本経済新聞)
読売新聞社:「戦後最高の組織ジャーナリスト」と称される
読売新聞社に次席で入社:政治記者としての鋭い取材力と深い正解人脈をで一線を画した人物。
週刊誌記者を経て政治部記者として活躍
自民党の大野伴睦の番記者を務め、その信頼も得て総裁選や議長選出の交渉を代行するほどの影響力そして、大野の死後は中曽根康弘と親密に関わり、総裁選や入閣交渉でも重要な役割を果たしました。また、児玉誉士夫との関係を通じて、日韓国交正常化や国有地問題にも関与しました。
彼の取材技術と洞察力は同業者からも高く評価されてます。
老害と言われた男の意外な素顔
なぜナベツネこと渡辺恒雄は老害と言われたのか
簡単に言えば時代遅れの発言や彼の強靭な態度やメデイア界の停滞、また高齢になってもなお業界の中で高い影響力を持っていた為に若い世代からの反感をかうことも。
次世代のリーダーに道を譲らず自分の立場を固守する姿勢が『老害』として批判されたのでしょう。
ただその評価は賛否分かれる部分も!やはり彼はこの世界では偉大な方だったから。
ナベツネこと渡辺恒雄の意外な素顔とは?
老害•ワンマン•暴君といわる彼ではあったが意外な素顔、愛のある人間性があったのだ。
プライベートではハムスターを飼育していてバードウオッチングが趣味で自宅の庭にエサ場をつけ野鳥を観察するのが楽しみだったようだ。
また妻である篤子夫人は1999年に逝ってしまったが大恋愛の末に結ばれたようだ。(元•女優)
そして渡辺恒雄さんは現在65歳の一人息子をお持ちです。彼は愛妻家で家族をとても大切にするひとで妻を亡くした後も、親孝行な息子が毎晩訪れて身体を揉んでくれたり、高校生の孫が頻繁に顔を見せたりと、家族の温かい支えを受けていました。
まとめ
ナベツネこと渡辺恒雄さんのことをまとめてみました。
2024年12月19日に肺炎で逝去されましたことをお悔やみ申し上げます。心よりご冥福をお祈りいたします。